日本のフォークソングの歴史・日本のフォークソングの名曲、日本のフォークソングの名作

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日本のフォークソングの歴史の概略(2)
日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●高田渡「自衛隊に入ろう」(1968年)


1960年代後半に、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活躍)、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。

1968年第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。

1960年代末、京都に拠点を移す。高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。

1969年にURCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでデビュー。

また後に、京都のひがしのひとし、古川豪らと親交を深める。

全日本フォークジャンボリーには第1回から参加。また第2回ではURC関連の出版社にいた加川良をステージ上に引っぱり出し、フォークシンガーとしてデビューさせる (後にステージ上に引っぱり出したのは演出であり、フォークジャンボリーで加川をデビューさせるのは予定されていたことだと加川によって明かされる)。

弾き語りと対話形式の『汽車が田舎を通るそのとき』をリリース。

キングから、大瀧を除くはっぴいえんど(細野晴臣、鈴木茂、松本隆)を従えた『ごあいさつ』をリリース。

この『ごあいさつ』には、高田の代表曲でシングルカットもされ、後に真心ブラザーズがカバーした「自転車にのって」が収録されている。




●高田渡「自衛隊に入ろう」を唄い、観客に衝撃を与える。
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=XFRkB3mpqD8



冗談のようだが、この「自衛隊に入ろう」を本物の『自衛隊』が広報・隊員募集に使おうとした

あやうく本採用される前に「自衛隊」を皮肉った歌であることが上の人に伝わり、採用されなかった。(お互いによかったね。)




●高田渡「値上げ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ngcIIpT5wxs


日本中が高度成長でインフレの時代を象徴するような歌だ。(笑える。)



●詩人三木卓の名作である「系図」をフォークソングにした。(しんみりといい歌だ。)
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=vbEbPbQ5RMc

本当に高田渡も「酒飲み」で、56歳という若さで亡くなった。


●高田渡には、こういう「ほのぼの」とした「私小説」ふうのフォークソングが多い。

「自転車にのって」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=Bn5uzJa8twU



●高田渡「生活の柄」
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=XEdWP-EkNwc


生活の匂いがいっぱいのフォークソングなのだ。


日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●ビリーバンバン「白いブランコ」、「さよならをするために」、「また君に恋してる」


菅原孝・進の二人による兄弟デュオであるビリーバンバン。

まるで高校生のフォークサークルが出てきたような清潔感あふれるフォークデュオだ。

1966年に当時青山学院大学の学生であった進が友人達四人組のバンドとして結成。翌年メンバーチェンジが行われ、孝とパーカッションの中野光雄(後のせんだみつお)の三人組のバンドとなる。

その頃から、アマチュアバンドに物凄い腕前の持ち主がいるとの噂が音楽業界関係者の間に広まり、浜口庫之助の指導を受け、紆余曲折を経てビリーバンバンは孝と進による兄弟デュオとして、「白いブランコ」でメジャーデビュー、20万枚を超える売上となり、一躍フォークシンガーの代表的存在として人気を得る。

1972年、テレビドラマ『三丁目4番地』(日本テレビ)の主題歌である「さよならをするために」が約80万枚の大ヒット、その年の『第23回NHK紅白歌合戦』にも出場。

2009年、坂本冬美がビリーバンバンの「また君に恋してる」をカバーし、ヒット。

第51回日本レコード大賞では優秀作品賞を受賞。

第60回NHK紅白歌合戦の歌唱曲にも選ばれる。


●ビリーバンバン「白いブランコ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=DO2mKlfmMZc



●ビリーバンバン「さよならをするために」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=aAx2guI24IY

この曲は新鮮だったなぁ。作詞は石坂浩二・・・本当に多彩な人だよね。



●ビリーバンバン「また君に恋してる」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=7G1qeNWBPkU

この曲は名曲だよね。フォークと呼んでもいいし、演歌と呼んでもいい。

音楽の垣根を越えての名曲だ。


実は、坂本冬美にフォークに匂いを見出したのは、忌野清志郎である。

ある放送局の喫茶店で、営業に来ていた坂本冬美の声の美しさとうまさに驚き、そのまま1991年に細野晴臣、忌野清志郎とHISを結成。
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=B7aKAKPIMNo

日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●RCサクセション「ぼくの好きな先生」、「宝くじは買わない」、「LOVE ME TENDER」


RCサクセションのファンに怒られるかもしれないけれど、僕にとってRCサクセションは「フォークグループ」だ。

初期のRCサクセションには「三浦友和」が入っていた。

忌野清志郎がよく言っていた自慢話に「三浦友和にギターを教えたのは俺だ」というのがある。

僕の今の住まいの近くに「たまらん坂」があり、そこの石垣に忌野清志郎の落書きがある。

「多摩蘭坂」という曲も作っている。
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-FzYxaFp4Es

忌野清志郎が亡くなった時と一周忌に、その「たまらん坂」に多くの若者が集まっていた。




RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本のロックバンド。

忌野清志郎をフロントマンとし、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど日本語ロックの成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。

実際、RCサクセション (以下、特段の理由がない限り「RC」と略す) に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。

また、彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。

その後、1991年より無期限の活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年5月2日に忌野が癌性リンパ管症のため死去した。


1970年、「宝くじは買わない」で東芝音工(現EMIミュージック・ジャパン)よりシングルデビュー。

1971年、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「青い森」で当時フォークグループ古井戸として活動していた仲井戸麗市と出会う。

1972年、ラジオ番組「ハロー・パーティ」「バイタリス・フォーク・ビレッジ (後に、『ライオン・フォーク・ビレッジ』に改題)」 などへの出演を始める。

3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。

1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。

1978年、春日がメンバーとして参加し、フォーク形態からロック / R&B形態へとバージョンアップされる (当時は、その衝撃の大きさからマスコミでは「パンク・ロック」と評されることが多かった)。

さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。

忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。


●RCサクセション「宝くじは買わない」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=7CnGsKTHtNw


●RCサクセション「ぼくの好きな先生」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=ZHSnb5XsYDM (デビュー当時)

     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=AA9B0I0aRe4&NR=1 (その後の姿で)



この曲を初めて聴いた時は、この独特な歌声と素朴な歌詞がラジオから流れてきて、僕は驚いた。

なんて素敵な奴なんだろう、と。

たまたま、僕が通っていた新潟県立柏崎高校の美術に先生は女性なのだが、ヘビースモーカーで、よくタバコを吸いながら、絵の採点をしていたので、この「僕の好きな先生」と重なった思い出がある。
(こちらは、「おじさん」ではなく「おばさん」だったのだが。)


その後は、僕の前に現れなかった初期のRCサクセションだったが、次に僕の前に現れたRCサクセションはギンギンにロックバンドの変身していた。

1978年当時だ。


活動拠点としていた「青い森」「渋谷ジァン・ジァン」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。

泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。


忌野が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、井上陽水と「帰れない二人」を共作。

もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された井上のアルバム『氷の世界』 (1973年) がミリオンセラーとなる。



●忌野清志郎&井上陽水「帰れない二人」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=0USYCP6VWv4



●忌野清志郎&井上陽水「待ちぼうけ」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=nszrKQXe2ro





今年になってまさに脚光を集めた「反原発」の歌がある。

作成した当時、RCサクセションは東芝EMIからレコードを出していたけれど、その親会社である東芝は「原発」を作っていた。(福島原発も東芝の製造だ。)

そのため、親会社からクレームがつき、レコードが発売されなかった。

その時、新聞広告に「素晴らしすぎるレコードのため発売中止になりました」というコピーが載った。

1988年、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラブ・ミー・テンダー」とアルバム『COVERS(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。

同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現ユニバーサルミュージック)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。


●忌野清志郎「LOVE ME TENDER」
     ↓
http://www.youtube.com/watch?v=7E6huKlEjl0


RCサクセションと忌野清志郎のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)


 
日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●アンドレ・カンドレ(井上陽水)「傘がない」、「心もよう」、「氷の世界」(おまけに石川セリも)



1969年・・・アンドレ・カンドレ(井上陽水)がデビュー。

ラジオから奇妙な声で流れてきた「さびしさのつれづれに〜〜♪」(心もよう)。

あれよあれよという間に、ヒットチャートを上昇。

歌謡曲をなぎ倒し、1位に。

「心もよう」が入っているアルバム「氷の世界」は日本のレコード史上、初の「ミリオンセラー」(100万枚売上)になった。

フォークのジャンルじゃなくて、歌謡曲も演歌も全て含めて、初めての「ミリオンセラー」なのだ。

当時のフォークソングの過熱ぶりが分かる。

ここに来て、レコード会社は「フォークはカネになる」とばかりに、有象無象のフォークシンガーを輩出した。


1970年代には吉田拓郎と双璧をなし、フォークソング界あるいはニューミュージック界を牽引した。

1973年発売のアルバム『氷の世界』は、アルバムとして日本市場で初のミリオンセラーを記録する。

その後も1984年のアルバム『9.5カラット』が売り上げ100万枚、1999年のベストアルバム『GOLDEN BEST』は売り上げ200万枚を達成するなど、長いキャリアを通して高い人気を維持し、日本ポピュラーミュージック界の最重要人物の一人として活躍し続けている。

デビュー前からビートルズの熱狂的なファンである。

コンサートやテレビ番組の中でしばしばビートルズの作品を歌うほか、ビートルズの影響は楽曲の随所に見られる。

2人目の妻である石川セリとの間に一男二女がおり、長女は作詞家・歌手の依布サラサである。

「石川セリ」も僕は大好きだ。



●井上陽水「傘がない」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=E4ZrwPQqxxA

なんて、暗い曲なんだ、というのが、僕の最初の印象だった。

若者の「刹那主義」をよく反映している。




●井上陽水「心もよう」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=E4ZrwPQqxxA


僕の井上陽水の初体験は、この「心もよう」だ。

独特な世界を叙情的に歌い、歌唱力がムチャクチャあるフォークシンガーだな、と思った。

この頃から、自分で作詞、作曲し、演奏して歌まで歌う、というフォークシンガーのスタイルに対する「シンガー・ソング・ライター」というネーミングも定着してきた。

で、この「心もよう」に戻るけれど、中学2年の時に、1学年上の女子生徒からバレンタインにチョコとマフラーと、この「心もよう」の歌詞が書かれたラブレターをもらった。

僕にも、そういう時代があった、というだけの切ない思い出なのですが・・・・・・。



●井上陽水「氷の世界」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=YipURaQP-IY


僕のとっては、井上陽水は、この「氷の世界」が、そのまま井上陽水の世界観になっている。

聴けば聴くほと、不思議な歌詞だ。

「りんご売り」なって聞いたことある?

でも、調子のいいロック調の大好きな音楽だ。

聴いていると元気が出てくるぞ。




●井上陽水の奥さんの石川セリの「ダンスはうまく踊れない
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=tVtcK-xmXto


作詞・作曲は井上陽水。


ついでに、石川セリということ絶対に外せない曲がある。
   ↓
●石川セリ「『つぶやき岩の秘密』 主題歌 「遠い海の記憶」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=53Wkwr55QGs

NHK少年ドラマシリーズの中でも屈指の名作『つぶやき岩の秘密』の主題歌。

いや〜〜〜!懐かしいな。中学校の同級生たちの顔まで浮かんでくるよ。


さらに、さらに石川セリということ絶対に外せない曲がある(その2)。
   ↓
●石川セリ「八月の濡れた砂 」
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=En26n8uDN0s



井上陽水のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)


日本のフォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●吉田拓郎。「結婚しようよ」、「人間なんて」、「どうしてこんなに悲しいんだろう」



吉田拓郎。

日本のシンガーソングライターの草分け的存在である。

マイナーな存在だったフォークとロックを一気に日本の音楽シーンのメインストリームに引き上げ、また大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立など、さまざまな新しい道を開拓したパイオニアとして日本ポピュラーミュージック史における最重要人物の一人である。

「フォークソングの貴公子」とか「和製ボブ・ディラン」等とも呼ばれた。

僕の中学時代は、吉田拓郎、一色だった

吉田拓郎を最初に知ったのは、中学1年の時に、その時のガールフレンドが僕の隣で「僕の髪が肩まで伸びて〜、君と同じになったらぁ〜、約束通り、町の教会で結婚しようよ〜♪」と鼻歌感じで歌ったのが最初だった。

その後、ラジオの深夜番組はもちろんのこと、テレビでも「結婚しようよ」が流れ始めた。


●吉田拓郎「結婚しようよ」(1972年)
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=qT4nQLeXhmc


「お〜〜!面白い。自分のことを自分で作詞、作曲して歌を唄っていいんだ〜!」と思わせてくれた。

僕はすぐにお小遣いを持って、村に一軒の電気屋さんに走り、「元気です」という吉田拓郎のアルバムを買った。

この「元気です」というアルバムは僅か1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけた。

しかし!!

吉田拓郎はテレビのヒットソング番組への出演を拒否!!

その行為そのものが、若者の(僕の)心をつかんだ。

ちなみに、この「結婚しようよ」のバックに流れいてるハモンドオルガンは松任谷正隆(ユーミンの旦那)だ。



●吉田拓郎「人間なんて」(1971年)
    ↓
http://www.youtube.com/watch?v=1QoEcK80p0Y

吉田拓郎の「元気です」を買って、すっかり「拓郎熱」に浮かされた僕はバスで長岡市内の大きな電気屋さんまでいき、その当時発売されていた吉田拓郎の全てのアルバムを購入。

中学1年生の少年にとって、驚愕したのが、この「人間なんて」だ。

噂によると、吉田拓郎は「中津川フォークジャンボリー」で、この「人間なんて」を延々2時間も歌ったということを「ヤング・フォーク」という雑誌や「ヤング・ギター」という雑誌で知る。

その4年後、静岡県掛川市のつま恋で「吉田拓郎、かぐや姫、オールナイトコンサート」(1975年)に出かけ、生で、「人間なんて」を自分も声を限りに叫んだ。(多分30分ぐらい。)

さらに、その4年後の1979年に愛知県の篠島という離れ小島で一晩のコンサートがあり、それにも参加。

帰りの船の音が全て「人間なんてララララララ〜♪」と聞こえた。



●吉田拓郎「どうしてこんなに悲しいんだろう」(1971年)

上記の「人間なんて」のアルバムに入っている、吉田拓郎らしい大傑作。(初期の吉田拓郎の中では、僕はこの歌が一番好きだ。)
   ↓
http://www.youtube.com/watch?v=b3gPkhmSibk



●吉田拓郎「落陽」

吉田拓郎のコンサートでは今も昔も欠かせないのが、この「落陽」。(どうでもいいのだが、僕が歌える「カラオケ」はこの曲だけだ。)
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=34-GwKl5JwU



●吉田拓郎「アジアの片隅で」

吉田拓郎中期の大傑作。

この曲は武道館で初めて聴いたのだけど、鳥肌が立った。
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=-OLX49L8oFg



●吉田拓郎「永遠の嘘をついてくれ」

中島みゆきの作詞・作曲によるものだが、まるで拓郎が作ったのかのように見事に「字余り」の曲で、「酔っぱらい」が出てきて、「日本」が出てくる。

最近の曲の中では、僕が最もよく聴いている曲です。(中島みゆきバージョンも含めて)
  ↓
http://www.youtube.com/watch?v=O9Bsp72aUbM




吉田拓郎のその他の作品は「特集」をご覧ください(まだ、そのページを作ってないけれど、作成予定。)


 
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