日本のフォークソングの歴史・日本のフォークソングの名曲、日本のフォークソングの名作
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日本のフォークソングの歴史の概略(5) |
フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●ガロ「学生街の喫茶店」 松崎しげるらと「ミルク」という名のバンドを組んでいた堀内と日高に大野が加わり結成。 かまやつひろしのバックバンドを経て、ミッキー・カーチスのプロデュースで、1971年にシングル『たんぽぽ』でデビュー。 同年11月、アルバム『GARO』をリリース。 1972年、セカンドアルバム『GARO2』をリリース。 同年6月、このアルバムから1曲目の『美しすぎて』をA面、3曲目の『学生街の喫茶店』をB面としたシングルがリリースされたが、当初はシングルチャート上位には登場しなかった。 同年12月、サードアルバム『GARO3』をリリースしたが、それと前後して『美しすぎて』のB面『学生街の喫茶店』がラジオや有線放送のリクエストを集めるようになり、1973年2月19日付けのオリコンのシングルチャートで1位に浮上、4月2日付けのチャートまで7週連続1位というヒットとなった。 これによりガロのテレビ等のマスコミ出演回数が飛躍的に増大したが、そのヒット期間中にボーカルの大野が入院、復帰するまで堀内と日高の2人だけでスケジュールをこなす事態が生じた。 『学生街の喫茶店』がヒットしている最中である1973年2月26日に横須賀市文化会館で催行されたコンサートがライブ収録され、5月にシングルとしてリリースされた『君の誕生日』と『散歩』の2曲(スタジオ録音)を追加したアルバム『GARO LIVE』が1973年6月にリリース。 さらに同年、シングル曲の『ロマンス』を含むアルバム『GARO4』がリリースされ、翌1974年にはコンセプトアルバム『CIRCUS』がリリースされるが、『学生街の喫茶店』に相当するヒットには至っていない。 アルバム『三叉路』が最後のレギュラーアルバムとなり、1976年に解散する。 ●ガロ「学生街の喫茶店」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=m0AdH1ODBrw もともとシングル盤のB面の曲だったが、吉田拓郎が初めてこちらのほうがいいとオールナイトニッポンで流し、そこで火が付く。 無茶苦茶きれいなハーモニーで、僕の母親が「お金を出すから学生街の喫茶店を買ってきて」ということで、僕はこのシングルを母のために買ってやった。 ガロはテレビでもよく出演したのでヒット番組の常連になった。 ●ガロ「美しすぎて」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=iOAg4guakyg この曲も美しいハーモニーを聞かせてくれるが、やはり「学生街の喫茶店」ほどインパクトのある歌詞じゃないね。 |
フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●バズ「愛と風のように」 小出博志は東海大学在学中に「インディアンアップル」というバンドを結成。 その後高橋信之を中心としたグループ「ステージフライト」に参加した。 東郷昌和は中学時代に同級生の高橋幸宏(高橋信之の弟)と「ブッダズ・ナルシィーシィー」というバンドを結成。 高橋信之のプロデュースでフォークグループを結成、1972年に『ケンとメリー〜愛と風のように〜』でデビュー。 『ケンとメリー〜愛と風のように〜』は、日産スカイラインのCMソングに起用され、オリコンチャート19位まで昇るヒットとなった。 ●バズ「愛と風のように」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=rOU5uxt2wNM これまた美しい歌声のバズの歌だ。 日産のスカイラインのCMにぴったりとはまった歌だ。 僕もギターを覚え始めた頃に練習した。 この曲で初めてAのコードを覚えた。 愛と風のように生きる。素敵なフレーズだ。 |
フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●あがた森魚「赤色エレジー」 ●あがた森魚「赤色エレジー」 上京後、斉藤哲夫、野澤享司、鈴木慶一らと親交を深め、中津川フォークジャンボリーにあがた森魚と蜂蜜ぱいとして参加。 春一番コンサートにも同様の組み合わせで参加。林静一の同名漫画を題材とした「赤色エレジー」が話題になり、50万枚を売り上げてベルウッド初のヒットシングルに。 「VirginVS」「雷蔵」としてのリリース、ライヴ盤、カヴァーアルバムなどを含め、40枚あまりのアルバムをリリースしている。 近作に『佐藤敬子先生はザンコクな人ですけど』『タルホロジー』。 2008年、60歳を迎えライヴツアー「惑星漂流60周年!」を全国各地で展開、 2009年2月22日、記念イベント『Zipang Boyz號の一夜』を開催。 2009年10月ドキュメンタリー映画『あがた森魚ややデラックス』完成、 全国順次公開中。 月刊日記映画を毎月制作、上映会も行い、ライヴを全国で展開している。 ●あがた森魚「赤色エレジー」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=JRQfpWJt840 とてもレトロな、大正ロマン風のフォークソング。 独特な世界を広げた。(風貌も独特だが。) 映画を題材にした歌だ。 のちにリリースした「ジパング・ボーイ」では、より深い「あがたワールド」を展開した。(残念ながらYouTubeには無かった。) |
フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●中島みゆき「時代」 ●中島みゆき「時代」 オリコンで4つの年代にわたってシングルチャート1位を獲得した(1970年代:「わかれうた」、1980年代:「悪女」、1990年代:「空と君のあいだに」、「旅人のうた」、2000年代:「地上の星」)唯一のソロ・アーティストでもある。 1975年5月、財団法人ヤマハ音楽振興会の主催による第9回ポピュラーソング・コンテスト(通称ポプコン、現在のTEENS' MUSIC FESTIVAL)に「傷ついた翼」が入賞。 同年9月には「アザミ嬢のララバイ」でキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から晴れてレコード・デビューを果たす。 そして、1975年10月の第10回ポピュラーソング・コンテストに「傷ついた翼」から急遽差し替えた「時代」によってグランプリを受賞。 つづけて11月の第6回世界歌謡祭 でもグランプリを受賞した(「時代」は同年12月にセカンド・シングルとして発売)。 これをきっかけにミュージシャンとしての実力をヤマハミュージックの川上源一に見出される。 1976年4月、ファースト・アルバム『私の声が聞こえますか』を発表。 その後現在まで、1年につきアルバム約1枚のペースでコンスタントに作品を発表し続けている。 翌年には歌手としても「わかれうた」が70万枚を超えるセールスを記録し、ミュージシャンとしての地位を確固たるものにした。 歌手としてのブレイク曲「わかれうた」が収録されていた1978年発表の4枚目のアルバム『愛していると云ってくれ』には「世情」という楽曲が収められている。 この作品は後年にTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の劇中に使用されて大きな話題を呼び、シングル・カットされなかったにもかかわらず中島の初期の代表曲のひとつとなっている。 1981年のシングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで自身2度目の1位を獲得し、翌1982年の年間チャートでも6位を記録、また、この曲のアルバム・バージョンが収録された1982年発表のアルバム『寒水魚』が同年のオリコンの年間アルバムチャートで1位を記録するなど、1981年から1982年にかけてはその人気はピークに達した。 1989年からは、瀬尾が音楽監督として名を連ねる演劇とコンサートを融合した舞台「夜会」(やかい)をBunkamuraシアターコクーンで毎年12月に上演するようになる。 「夜会」は中島にとってのライフワークともいえる舞台となり、1998年に一旦、年一回の公演という形を終了し、その後は不定期で上演されている。 1990年代の日本の音楽業界では、テレビドラマやCMとのタイアップによってミリオンセラーを記録するシングルが後を絶えなかったが、その中において中島みゆきも例に漏れず、「浅い眠り」をはじめとする3枚のミリオンヒットを記録している。 この3枚のいずれもテレビドラマの主題歌として起用された楽曲であり、なかでも安達祐実主演の日本テレビ系列『家なき子』の主題歌として書き下ろされた1994年の「空と君のあいだに」は147万枚のセールスを記録した。 1983年発表のアルバム『予感』収録曲「ファイト!」との両A面扱いで発売されたこのシングルは、現時点での中島にとっての最大級のベストセラーである。 1999年には文部科学省の国語審議会委員を務めた。現時点でこの審議会の委員を務めた歌手は中島みゆきただ一人だけである。 2000年には25年に渡って在籍したポニーキャニオンを離れ、当時創設されたばかりで自らが取締役・主要株主として経営にも参画するミニ・メジャーのレコード会社、ヤマハミュージックコミュニケーションズに移籍。 以降現在までヤマハから作品を発表している。 移籍後最初にリリースされた中島のシングルが、NHKのテレビ番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」である。 このシングルは主に中島の作品にこれまで馴染みの薄かった中高年層のサラリーマンを中心に大きな人気を集め、最終的にオリコンのウィークリーシングルチャートTOP100に連続174週に渡ってランクインするという驚異的な記録を打ち立てた。 発売当初、このシングルは全くと言っていいほど話題にならなかった。 しかし、『プロジェクトX』の人気が高まるとともに注目され、アルバム『短篇集』には、1曲目が「地上の星」、ラストが「ヘッドライト・テールライト」という構成で収録された。 このアルバムを発売するにあたっては、ジャケットの仕様をめぐり岩波書店からクレーム(岩波文庫をもじって「山波文庫」=ヤマハ文庫と表記した)がつき、発売直前になって急遽デザインが差し替えられるというハプニングも起こった。 このロングヒットをきっかけに中島は2002年の第53回NHK紅白歌合戦に出演。 『プロジェクトX』内でもとりあげられた黒部ダム(黒部川第四発電所)からの中継で「地上の星」を歌った。 このとき初めて「動く中島みゆき」を見た人も多く、番組中最高の歌手別視聴率(52.8%:ビデオリサーチ調べ/関東地区)を記録。 また、極寒の中で極度の緊張から2番の歌詞を間違えたにもかかわらず反響は大きく、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は翌年1月、発売から2年半近くを経てシングルチャートナンバーワンに輝いた。 これはオリコン始まって以来のリリース後最長期間(130週)を経た1位獲得記録である。 同時に、1970年代 - 2000年代まで4年代連続の1位獲得となった。 2005年12月28日には『プロジェクトX』の最終回に出演。 歌詞以外はほとんど声を発することなく、スタジオで同番組エンディングテーマ「ヘッドライト・テールライト」を熱唱した。 その影響で2006年1月16日、「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は、2004年2月2日以来のオリコンシングルチャート100位圏内返り咲き(66位)を達成。 通算オリコンシングルチャート100位圏内チャートイン記録を183週に延ばした。 『紅白歌合戦』及び『プロジェクトX』の最終回に唄う際、ほとんどMCがなかったのは、当の本人の「あっけらかん」さが表れるのがいやだった、と本人がラジオ(2006年12月15日『オールナイトニッポン』にて)で話している。 2006年、第56回芸術選奨 文部科学大臣賞を受賞した。 「コンサートツアー2005」が評価されてのこと。 シンガーソングライターとしては初の受賞者。 また同年には、TOKIOに提供した「宙船」の作詞が評価され、第48回日本レコード大賞の作詩賞を受賞した。 2007年8月から新たに設立されたヤマハミュージックアーティストがマネジメントが行う。 同年秋には2年ぶりの全国ツアー「コンサートツアー2007」が行われた。 2009年11月3日、紫綬褒章を受章。 受賞に際して、うれしい気持ちを「棚から本マグロ」と表現した。 中島曰く、「ふつう、何か頂けそうでも辞退する(考える)ところだが、褒章はふつうではないため、すぐに返事をした」という。 中島みゆきについては、特集コーナーを作る予定です。 ●中島みゆき「時代」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=9S-V_uUIgeA ヤマハの世界歌謡祭 でもグランプリを取って、僕は初めて「中島みゆき」を知った。 「いやはや、とんでもない歌手が出てきたぞ」というのが最初の印象だった。 その後「暗い」というイメージがあった中島みゆきだったが、彼女のオールナイトニッポンでその「落差」に驚いて、ますますファンになった。 「時代」は僕が失恋するたびに聴いた曲。 「時代」を超えて、唄え継がれる歌だ。 ●中島みゆき「空と君のあいだに」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=DeoWTEy6AxI 吉田拓郎の「冷たい雨が降っている」と同じ印象を受ける曲。 この曲で、世間的には中島みゆきが一躍有名になる。 このあたりから中島みゆきの世界が確固たるものになる。 ●中島みゆき「地上の星」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE そして、中年おじさんの間に一大ムーブメントを起こした名曲。 番組「プロジェクトX」そのものも素晴らしい番組だったが、この曲も歌詞の意味が深く、サラリーマンの心に感動を与えてくれる。 |
フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク●松任谷由美(荒井由美)「ひこうき雲」 ●松任谷由美(荒井由美)「ひこうき雲」 ユーミンファンには怒られるかもしれないけれど、僕の中ではユーミンも「フォークシンガー」だ。 ただ、彼女の出現頃から「ニューミュージック」という言葉も使われていた。 1972年4月に多摩美術大学に入学。 初めは作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。 同シングルは300枚しか売れず、後に幻のデビューシングルと呼ばれるようになる。 1973年11月にファーストアルバム『ひこうき雲』を発売、TBSラジオの深夜放送番組『パックインミュージック』金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始する。 1975年10月発売のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャート1位を獲得(それ以前にもバンバンへの提供曲の「『いちご白書』をもう一度」が1位を獲得している)、1976年の年間シングル売り上げチャート10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。 さらにこの年には、年間アルバム売り上げチャートTOP10に、旧譜を含む3枚のアルバムがランクインするという快挙を成し遂げた。 彼女が活動を始めた時期は、自作自演を行う人の中からアメリカやイギリスの1960年代の音楽に深く影響を受けた、フォーク(後にニューミュージック)と呼ばれるジャンルの音楽を志向する人々が増えてきた頃にあたり、彼女は女性としてはその草分け的存在の一人であると言える。 初期の頃の「ニューミュージック」は楽曲的にはフォークソングの系譜を受けつぎながらも、詞に関しては従来型の「四畳半フォーク」等と揶揄されていたほど生活観や生々しい恋愛描写に満ち溢れていたものであったのに対し、彼女の作品はそうした生活観を直接的にさらけ出した表現を避け、叙情を重視した詩的な歌詞であった為に話題を呼んだ。 また歌詞に東京近郊の名所を盛り込むなど都会的なセンスを兼ね備えていた点も評価されていた。 1975年12月にアレンジャーの松任谷正隆と婚約、1976年11月29日に横浜山手教会にて結婚、松任谷由実となる。 本人には引退する考えもあったようだが、結婚後も途切れず音楽活動を続行。 1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年年間シングル売り上げチャート10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。 その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得、1988年のアルバム『Delight Slight Light KISS』以降は8枚連続のミリオンセラーを連発。 1996年、旧姓荒井由実の名で活動を行う。セルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。 また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。 このライブアルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数ヶ月遅れた。 これ以降、日本の恒例行事とまで呼ばれたサイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになったが、「カリスマはもういい。これからは好きな音楽をやる」と宣言した彼女は、以後も精力的に作品を制作。 ステージはますます大掛かりになり、1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートした制作費50億円のコンサート『シャングリラ』を開催。 前代未聞の興行として話題になる。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。 コンサートツアーや逗子、苗場の映像が残されているが、発売へ向けて期待に沿えるものを計画中。 また、松任谷正隆は『ひこうき雲』からの全アルバムをリミックスしたいと発言。 5.1chサラウンドにも対応し、よりマスター音源に近づけることが可能なBlu-ray Audioにも興味を示している。 松任谷由美に関しては別に特集のページを作る予定です。 ●荒井由美「ひこうき雲」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=GlsYJ1Ykiu8 高校時代のガールフレンドと喫茶店にいた時に、この曲がかかり、途中からガールフレンドが泣き始めた、という思い出がある。 荒井由美を世間に知らしめた初期を代表する名曲。 こんな世界を歌にする人は、当時、ユーミンしかいなかった。 ●荒井由美「あの日に帰りたい」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=pkdSkCkG7DQ&feature=fvst この曲を聴くと、所謂「フォークソング」と一線を画するような気もするが、歌詞をよく聴くと、やっぱり「フォークソング」だなと(僕には)思えた。 ●松任谷由美「春よ来い」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=1u_TgwSxrWQ 懐かしい言葉とメロディでありながら、斬新なシーンを想像させる名曲だ。 NHKの朝の連ドラの主題歌だった。 優しさに溢れた歌だ。 ●松任谷由美「守ってあげたい」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=zvHU_rtBDW4 女性の母性本能を歌にしたら、こんな感じになるんだろうな、と思わせる曲。 ユーミンワールドだね。 |
フォークソングの歴史・フォークソングの名曲、昭和のフォーク、フォークソング名曲集●サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」 ●サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」 ハッキリ言って、サザンは「フォークではない」と言われるだろうが、僕にとっては「最後のフォークバンド」という印象だ。 もちろん、そんなジャンルにこだわらずに活躍しているサザンが好きだ。 1975年頃、青山学院大学で活動が始まり、音楽サークル“Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される。 幾度かのメンバーチェンジの後、1977年にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハEastWest '77」に出場し桑田がベストボーカル賞を獲得。 この頃には青学生ではなかった松田弘・野沢秀行も加わり、メンバーはデビュー時の6人に固まった。 当初は独特かつ奇抜なその音楽性が敬遠され大手の事務所はサザンを敬遠していたが、当時新興事務所であったアミューズの大里洋吉社長(当時)が「フォークソングの時代は終わり、これからはロックの時代が来る」という判断の下でスカウトしたが、メンバーの大里に対する第一印象はあまり良いものではなかったという。 また大森と大里がデビューにむけて着々と準備を進めるなか、焦ったためか桑田がワーナー・パイオニアとレコード契約を結んでしまったというエピソードもあるが、この件は関係者が出向いて話を収めたという。 1978年6月25日にシングル「勝手にシンドバッド」でビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)からデビューし、それまであった歌謡曲やロックなどのジャンルにとらわれない衝撃的な印象を残す。 事務所側はこのデビューに際し、フォークシンガーを中心に「テレビ出演の拒否」をする風潮が強い中あえて音楽番組に積極的に出演させるほか、ドラマ・CM等のタイアップを中心にお茶の間層の取り込みを狙う戦略を取った。 「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった。 年内にはこの「勝手にシンドバッド」がスマッシュヒットしたことでスターダムにのし上がったものの、この曲のヒットによって「次のシングルでのヒット」も確約せざるを得ない状況になり、桑田は山中湖のレコーディングスタジオで「曲作りのための“缶詰状態”」にされるなど、事務所やレコード会社からのプレッシャーを受けながら多忙な生活を送り「ノイローゼになるほどだった」と後に語っている。 この精神状態の中から生まれたのが2ndシングル「気分しだいで責めないで」であった。 翌年3月25日、3rdシングル「いとしのエリー」を発表。レコード会社との間で「3枚目のシングルまで同系統の楽曲を発表する」という旨を話し合い、後の4thシングルとなる「思い過ごしも恋のうち」が発売されることも半ば内定していたが、桑田曰く「メンバーは飽きちゃってた」「(ビートルズの)『レット・イット・ビー』のレコーディング風景が頭にあって、あんな音楽が出来たらいいと思った」ことから予定を変更。 この曲の発表で「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした。 1982年1月21日に14thシングル「チャコの海岸物語」を発表。 桑田曰く「グループ・サウンズのパロディ」であったり、当時人気絶頂であった田原俊彦の声色を意識して歌ったりと起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲だった。 この直後桑田と原は結婚を発表し、TBS系音楽番組『ザ・ベストテン』などでも祝福され、結婚式にはファンを呼ぶなど公私共に祝事が続いた。 1985年にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA』を発売した。 数回の発売延期を重ねつつも長期間のレコーディングセッションの中で生まれたこの濃密なアルバムには、サザン史上最高のアルバムだという声もある。 佐野元春から声がかかり「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも出演した。 同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため一旦活動を休止。 桑田はKUWATA BANDとしての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。 1992年7月21日に30thシングル「シュラバ★ラ★バンバ」、31thシングル「涙のキッス」を2枚同時発売し、サザン、そしてオリコン初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。 「涙のキッス」はTBS系ドラマ「ずっとあなたが好きだった」の主題歌に起用され大ヒット、サザンでは最高記録となる7週連続オリコン首位を獲得するなどサザン初のシングルでのミリオンセラーを突破した。 1993年には32thシングル「エロティカ・セブン」がフジテレビ系ドラマ「悪魔のKISS」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録。 そんな中1994年には桑田がソロ活動を再開し、サザンの活動は約1年間休止となった。 1999年9月26日・27日、ファンクラブシークレットライブ「'99 SAS事件簿 in 歌舞伎町」を行う。 桑田曰く「ファンの空気に触れて刺激を受けた」とのことで、その当時レコーディングしていた曲(桑田ソロ「可愛いミーナ」の元曲など)も方向性がガラッと変わり明るくなったという。 翌2000年1月26日に44thシングル「TSUNAMI」を発売。 この曲は前述のイベントから生まれた曲であり「売れるものを作った」などと桑田自身も語っている。 以降サザンはある程度保守的な方向性へとシフトチェンジしていく。 サザンのシングルでは久々となった切ないラブバラードのこの曲は、当時大人気だったTBS系バラエティ番組『ウンナンのホントコ!』のコーナー『未来日記III』のテーマソングとなり大ヒットした(再発盤のシングルも含め293万枚を売り上げ、オリコン歴代シングルランキングで3位に、シングルCDとしては現在1位にランクインされている)。 かねて何度も逃した日本レコード大賞もこの年に獲得した。 今作を機にサザンは長らく続いたセールス低迷から脱け出し、続く45thシングル「HOTEL PACIFIC」もヒットし、夏には桑田の地元である神奈川県茅ヶ崎市の地元住民の署名運動の結果、2日間の野外ライブ『茅ヶ崎ライブ 〜あなただけの茅ヶ崎〜』を行った。 一方そのライブが終了した直後に大森が休養を発表し、翌2001年には正式に独立を発表しメンバーから脱退した。 その前後から桑田らは再びソロ活動を開始。桑田はシングル「波乗りジョニー」「白い恋人達」がそれぞれミリオンセラーを達成した。 2008年、30周年に伴う53thシングル「I AM YOUR SINGER」の発売やライブなどの活動・プロモーションの発表と同時に、2009年以降メンバー個々の自由な発想による音楽活動を展開するべくサザンオールスターズとしての活動を無期限休止にすることも発表した(2006年のTHE 夢人島 Fes.を最後に実質的にサザンとしての活動は行われていなかったものの、この間を活動休止期間と定めていない)。 期限を設けない活動休止は原の出産・KUWATA BANDの活動などがあった1985年 - 1986年(活動休止は1988年夏まで)以来2回目のことである。 この活動休止については発表の当日にNHKテレビの『おはよう日本』がこのニュースを報じた他、民放各局で大々的に取り上げるなど日本のミュージシャン・ユニットの話題としては異例の報道や特集がなされ反響を呼んだ。 桑田自身は『活動休止の理由はより新しいものをつくるための充電期間』としている。 また、『(キラーストリートで)現状でのサザンでできることのほぼすべてをやりつくした』『今のままでも活動を続けようと思えばできるが、それではサザンという看板にぶらさがっているだけで、甘えているだけになってしまう』とも語り、『(サザンの)解散は絶対にない』と断言している。 サザンオールスターズについては特集ページを作ります。 ●サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=vpCekH9Pte4 凄い早口で、なんじゃ、コレ? って感じだったな。 でも、軽快なテンポにちょっとエロチックな歌詞が若い僕にも受けたよ。 まさか、30年もつきあうとは思わなかった。 本当を言えば、一発屋かと思った。 ●サザンオールスターズ「いとしのエリー」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=bFSb_HqdsVQ この「いとしのエリー」を聴いた時、「このバンド、ここが勝負だな。これがヒットすれば、長続きするだろうな」と思った。 「勝手にシンドバッド」とか一転、スローバラード。 しかし、ファンはついてきた。 この「エロチック」→「バラード」というパターンはその後のサザンオールスターズの戦略になった。 ●サザンオールスターズ「真夏の果実」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=spSA41AteoM これまた、今や「夏の歌と言えば?」というアンケートでは必ず上位(大体、一位だ)になるバラード。 「夏はサザン」というイメージを植え付けた名曲だ。 ●サザンオールスターズ「愛の言霊」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=5FWNYOc4zLM 摩訶不思議な言葉と韻を踏んだ歌詞、それにのっかるメロディーというサザンワールド(と言うか、桑田ワールド)の代表曲。 歌われている世界も、人間界と妖怪界を結ぶような魑魅魍魎の世界。 こんな歌、サザン以外に考えられない。 ●サザンオールスターズ「TSUNAMI」 ↓ http://www.youtube.com/watch?v=j8-LCITNla8 日本ポップス界最大のヒット曲。 夏、海、恋、女・・・日本の歌謡曲でさんざん取り上げれたテーマをどうアレンジしたら、これだけのヒットになるのか? 奇跡的な曲だ。 明石家さんま曰く「好きなのに、泣いたのは何故?・・・・・桑田は天才や。くやしいなぁ」 |
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